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「さくら」通信

苫小牧市議会議員桜井忠のブログ

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突然の入院 3

 17日はMRCPの検査ですので10時頃から食べ物も水分も制限され、昼食はまたも抜きになりました。私は20年以上も前にちょくちょく首が寝違えたようになり動かなくなるものだから念のためと言われ苫小牧脳神経外科を紹介され初めてMRIで首の検査を受けたことがありましたが、その時は暑い夏の日、外回りをして汗ばんだ体で予約をしていた時間に病院へ行くと、院内は気持ちが良い程に冷房がかかり、すぐにMRIに入ると何も見えない狭い筒の中、「動かないように」という注意事項もありじっと目を瞑るとあっという間に寝てしまい、大きな鼾がドームに響き渡り、その音に自ら目を醒しましたら、「桜井さん終わりましたよ。」と言ってベッドが動き出しました。このことを友人に話すと「ガンガンとうるさいMRIの検査でよく眠れたなあ。」と呆れられましたが、そう思うと私の大きな、実に良く響く鼾はMRIの音波にとって邪魔なノイズになったのではないかと自嘲の微笑が漏れたものです。
 夕方5時近くになってからやっと呼び出しを受けましたが、以前の体験を思い出しながら検査に臨むと、今回はヘッドホンを付け時折そこから聞こえてくる指示通りに息を吸ったり、吐いたり、止めたりしておりましたが、指示の無い時は私の呼吸に合わせ、吐いた時に「ダン」と鳴るので、呼吸のリズムを整えるように意識をしていたら、やはり眠ってしまいました。今回は寝入ってすぐに検査終了となりましたが、どうも私にとってMRI検査は痛みなど無いので良いのですが「すぐ寝る」という性質上鬼門です。これで検査はほとんど終わって、あとは18日に外科の検診を受け、外科の手術日程の都合で後日胆嚢摘出手術を受けることとし、一旦19日退院しました。

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突然の入院 2

 市立病院では各種検査を行いましたが、消化器の先生が居らずやはり痛みにはただ耐えるだけしかありません。ようやく再度痛みだしてから5時間後の午前5時過ぎ2度目の筋肉注射でやっと痛みは治まりました。そこで1時間少々寝て、起きてから説明をされたのが「胆石が動いて胆管を詰まらせ、それによってその周辺が炎症を起こし、肝臓からの分泌も遮ることになっているので、まずはこの炎症を治し、そのあと石を内視鏡で取り出す。先々を考えれば胆嚢の摘出手術をした方が良い。まずは詰まっている胆管に内視鏡で管を入れて廃液を取り出す治療を行いたい。」とのことでした。
 すべては先生の良いと思われるように治療してくださいと申し上げ、早速内視鏡で管を入れ、鼻から廃液を出す処置をされた。以後お腹の痛みや腫れは治まっています。その後丸3日は絶食で水曜日に3分粥、木曜には5分粥になりましたが、金曜は内視鏡で石の摘出のため再び絶食、土曜は朝・昼抜き、夜が5分粥、日曜は朝7分粥でしたが、昼は月曜日直腸の内視鏡のためその検査食で、夜は重湯と実の無いみそ汁だけ、きっと退院する頃には体重も10キロくらい減るのではないだろうか。
 直腸検査はされた方はご存知でしょうが、朝下剤を飲み、その後腸内洗浄剤というこれも一種の下剤を含んだ水ですが2時間で2リットルも飲まなくてはいけません。半分も飲み終わらないうちにトイレに通いだし、腸内がすっかり空になるまで出し切ります。数回通う内にウォシュレットも痛くて当てられないくらいになりました。検査自体も時間がかかり、かなり痛かったのですが腸内は問題なく、ポリープなども無いとのことで安心でした。16日はこの他呼吸の検査と心電図の検査も行い問題無いとのお墨付きをいただきました。

突然の入院 1

 ブログを実質的には今年より開始したのにも関わらず、突然入院をしたために更新できずにおりました。私はおかげ様にも元来健康で、入院というものこの歳迄したことがございませんでした。ですから油断があったとも思いますが、今回の経過をご報告いたします。
 1月7日午前中より新年の挨拶回りを行い、この日は拓勇・植苗方面から千歳まで往き、帰りは苫東を回って帰ってきましたので、昼食は出先のパン屋さんでクリームのたっぷり載った菓子パンとコーヒーで済ませました。夕食は買い置きしていた牛肉があったので、ご飯とみそ汁にステーキを食べました。食後一段落をしてからお風呂に行こうと思い、先にステイで買い物を済ましていたところお腹が徐々にニヤニヤモヤモヤしてきました。「これは風呂は止した方が良い」と思い家に帰ってお腹の薬を飲みました。普段ならこれでだいたい治まるのですが、この日はどうもその気配がなくどんどん痛みは増してきます。あまり我慢をしてから夜間救急へ行くとそこでまたかなりの時間待たされる可能性がありますので、早めに決断して、9時頃夜間救急へ行きました。
 救急センターはそれほど混んでなく、痛み止めの筋肉注射をしていただきましたら10分もすると痛みは引いていきました。そこで家に帰って寝たのですが深夜12時半頃再度の痛みと熱も39度に上がり、再び救急センターに駆け込みました。しかし医師は「痛み止めは何度も打てない」と言い、点滴だけ射たれましたが、その間は脂汗で七転八倒の状態でした。その状態を見ていた看護士さんが医師に「桜井さんこのままにしておけないのではないか」と報告し救急車を呼ぶことになり、人生初の救急車に乗せられ、人生初の入院と言うことになりました。


お正月の駅伝(2)

高校駅伝は近年力を付けてきた世羅高校が優勝しました。世羅高校は1960年代宮崎小林高校などと駅伝の強豪校でした。しかしその後新興校の台頭で優勝争いに加わること無く過去の栄光のようになっていました。校内は荒れ、とうとう校長が自殺するところまで追いつめられたのです。
そこで、世羅高校のOBで小島敏文県議を中心に立ち上がり世羅高校後援会をつくり、小島さんを後援会長とし、まず毎朝教師とともに会長自らも校門に立ち生徒への挨拶運動を始めました。そして生徒の誇りを取り戻すべく過去の栄光になりかけていた陸上競技部の復活に努めました。その時全国高校駅伝は仙台育英の天下。願っても全国制覇は簡単にできるものではありません、しかしそれをやり遂げたことは陸上部員は勿論のこと指導者やその指導者を招聘した関係者の取り組みなど筆舌に尽くせぬものであったと思います。
私はこの仙台育英と世羅の争いに因縁を感じて見ていました。何故なら仙台育英の渡辺監督と世羅の小島後援会長は村田克己ゼミで私の4期先輩と3期先輩。共に机を並べた中です。渡辺さんは陸上部、小島さんは現代政治研究会を創設し、自民党学生部で副委員長とし学生の頃より活躍していました。大東文化大学に陸上部を創り、陸上の素人ながら「努力と戦略により不可能を可能にする」と教えた村田教授の精神がそこにあると思うからです。
小島さんは大学卒業と同時に大阪の中山正暉代議士の国会秘書となり、その後地元広島から政治家になるなら地元の代議士と言うことで宮澤喜一の秘書を経て20代で県議に挑戦、親も無く金もなく、知名度も無い中当選を果たした努力の人です。現在衆議院に挑戦していますが、亀井静香代議士の選挙区ですからその壁は高く落選していますが、「努力と戦略により不可能を可能に」し堅塁を抜いてほしいものと思います。

お正月の駅伝(1)

政治の話しではありませんが、年末の高校駅伝から、元旦の全日本実業団駅伝、そして伝統の箱根駅伝と毎日テレビが気になりながら仕事をしておりました。
私の恩師は大東文化大学の常務理事であり、政治学の教授でした。大学の経営者としてスポーツ振興に取り組み、陸上競技部やラクビー部、野球部、アイスホッケー部の強化に努めてきました。特に陸上競技部は定年退職するまで部長を務めておりました。
私が4年生の時還暦のお祝いをゼミ長だった私の呼びかけで行い、以来喜寿や米寿のお祝いは、ゼミ生、顧問だった現代政治研究会(私も所属)、陸上競技部のそれぞれOBの3者合同主催で行ってきました。そのような関係で監督などにその関係者が多く殊の外思い入れがあります。
まず、元旦のニューイヤー駅伝、優勝は日清食品グループ。このチームは毎年苫小牧で長期合宿を行って夏の走り込みをやっています。今年も180泊もしており、苫小牧経済に貢献してくれているチームです。このチームは以前MDIというチームがありましたがバブル崩壊で業績悪化し陸上部を廃部することになりました。その時の渡辺高夫監督が東奔西走し日清食品に陸上競技部をつくり、移籍をしたのがスタートですが、その後すぐに実井君(現在コーチ)がアトランタオリンピックの選手になり日清食品に恩返しをしたものです。渡辺さんは私のゼミの先輩で私が東京から北海道に居を移したとき先生の家で鍋を囲んで送別会までやってくれた方、実井君も大東文化OBです。
さて渡辺高夫さんは大学卒業後「埼玉栄高校(北海道栄高校の本校)設立準備室」に就職し、翌年開校と同時に陸上部の顧問となり5年目で全国3位にまで育てました。以来毎年優勝候補に挙げられておりましたが実際優勝するまではそれから更に10年もかかりました。特に超高校級と言われた山口政信君を擁し優勝候補の筆頭と言われながら花の1区に起用したエース山口君が疲労骨折をし、優勝を手に掛けながら奈落の底に突き落とされる挫折も味わっていました。
埼玉栄高校の全国優勝を花道に実業団MDIの監督になり、日清の監督になったのですが、日清が千歳に工場があるので千歳合宿をしていたのですが、私は何度も苫小牧合宿を依頼してきたものです。
その後渡辺高夫さんは仙台育英高校の監督となり、就任の年に全国制覇を成し遂げ、以来毎年のように優勝を重ねてきました。昨年60歳定年となり監督は退きましたが、北京オリンピックでマラソンに優勝したワンジルが優勝インタビューで「渡辺先生から『ガマン』を教わりました、苦しくてもガマンすることができました。」と言っていた。彼は仙台育英の留学生で渡辺高夫監督が育てた選手です。(続く)


明けましてお目出度うございます。

皆様様々な気持ちで、様々な場所で、様々な形で新年をお迎えのことと思います。
しかし一様に考えていることは、昨年のような悲惨な大災害が無く平穏な年であってほしいこと。
そして今なお寒風の中何時我が家で穏やかに家族と平穏な日々を迎えることができるかわからない方々に、一日も早い穏やかな日が来ることを祈らずにいられません。
今年は苫小牧市も課題山積ですが、それ以前に国政が安定してくれなければ地方は右往左往するだけです。民主党もせっかく政権交代したという気持ちはあるでしょうが、これだけ公約が反古にされ、残された任期の中で実行が不可能であるばかりでなく、逆の方向性を出しているものもあるのだから、やはり国民に信を問わなければならないでしょう。
大阪など地方の動きにも目が離せません。しかしよく聞くと「桜井の改革」と方向性は一緒だと感じています。翻って苫小牧市を眺めると、第2庁舎を政治活動に使っているのではないか。第2庁舎の組合負担暖房費が極端に少ないことなどまだまだ市を質していかなければならない課題があります。今年1年それらの課題に取り組み、橋下市政のように組合と緊張感のある正しい公務員組合との関係を追求して参りたいと考えております。

12月議会が終わりました

12月議会が終わりました。
今議会開会前日に板谷前道議がお亡くなりになり、複雑な気持ちで迎えました。
毎回職員給与の問題を一般質問で取り上げてきましたが、今回議案で職員給与の改定(人勧準拠)が提出されておりましたので(議案で提出されているものは一般質問できないという申し合わせがあり)、今回は陸上競技場の改修を中心に臨みました。
今日は朝から今年末年始の挨拶回りに持参できるように市政報告「さくら」を作成しております。今議会での私の発言を要約して記載しておりますが「さくら」に紙面の都合で記載できなかった議会改革についての私の基本的な考え方を次回以降何回かに分けてこのブログに展開したいと思います。


市民文化祭出品作品



書道作品としては筆を持つ時間も気持ちの余裕もなく忸怩たる思いです。
しかし東北の皆さんへのエールのつもりで出品しました。

東日本大震災

先日の市民文化祭に3年連続で出品しました。
「鎮魂 志津川に轟く 若者と唱うEXILEの道」と墨書しました。

南三陸町志津川の志津川中学校は3月12日に卒業式を予定していた。卒業生が合唱するのはEXILEの「道」。最初は先生方から「合唱曲でないからダメ」と言われたが、生徒が粘り強く説得し採用された。
 震災の夜、生徒は高台の学校にいたために全員無事だったが被災した家には戻れず、全校生徒と避難してきた住民250人が真っ暗な学校で不安な時間を送った。各クラスごとに固まっていたが、3年1組から卒業式で唄う予定だった「道」が聞こえてきた。その声に他の3年生も加わり、やがて全校生徒の合唱になった。生徒達の中には家族と連絡が取れていない者もいたであろう。大切な家を流された者、不安な夜にその心を支えた歌「道」。
志津川中学の校門前に一本の坂道がある。卒業を控えた佐藤利輝君の父は街で写真店を営んでいる。震災前に96人の卒業生全員を集めて記念写真を撮っていた。その写真は震災で流されたが2週間後瓦礫の中から発見された。ところどころ傷はついていたが破れることなく残った写真には廃墟になる直前の街の様子が写されていた。
EXILEはレコード大賞を連続受賞した人気グループ、しかし忙しいスケジュールを縫って3月30日の復興音楽祭に志津川に駆けつけ卒業生らと唱った。そして半年たった10月再び復興音楽祭絆「道」で卒業生と共に歌った。EXILEのメンバーには苫小牧東中を卒業した八木将吉君がいる。娘の一期先輩だった。何度も挫折を味わいながら目指すEXILEのメンバーとなった。われわれから見るとちょっと不良っぽいメンバーだがサングラスで見えない目からも涙が見えていた。
私が結婚した当時の義父は志津川の戸倉小学校の教員をしていた。ちょうど被災した中学生の父親世代を教えていたのだろう。今回市民文化祭のために筆を持ったとき、鎮魂のためにどうしてもこのことを書きたかった。

『思い出が 時間を止めた』 今日の日を忘れるなと
見慣れた景色 二度と並べない 思い出の道
この道で 君と出会い 春が僕らを包んでた
愛と優しさ 教えてくれたね 泣かないで歩こう (中略)

道、君と歩いた今日まで かすかに 動くくちびる
特別な時間をありがとう 「心」「勇気」「友」「笑顔」
嬉しすぎて 溢れ出した 涙が とまらない

ようやく完成しました。

かねてより多くの方々からblogの開設を求められておりましたが、友人である明野新町在住のO氏他の協力をいただいてようやく完成しました。今後書き込みをして参りますので何卒ご覧いただけますようにお願いいたします。
  

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プロフィール

HN:
桜井忠
年齢:
71
性別:
男性
誕生日:
1954/02/03
職業:
苫小牧市議会議員
趣味:
書道
自己紹介:
大東文化大学経済学部卒
職歴 苫小牧市議(4期)、前苫小牧市長、元代議士秘書
室蘭市出身

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