「さくら」通信
苫小牧市議会議員桜井忠のブログ
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三枝三郎先生の想い出 2
三枝先生の想い出で忘れてならないのは、鳩山由紀夫元総理を北海道に連れてきたことだろう。
昭和58年12月の選挙で落選した三枝先生は、そのまま引退するのか、もう一度衆議院を目指すのか迷い姿をくらました。残された地元市町は年末の予算策定時期に落選したとはいえ元代議士として各方面への陳情に充てにしていたのだがどこにいるのか分らない。新聞記者は当時自民党室蘭の幹事長をしていた私の父の元に取材にくる。父も分らないと答えるしかなかった。
落選した三枝先生は司葉子の夫である相沢氏と鳩山の父である威一郎と「さんちゃん」「あいちゃん」「ポッポちゃん」と呼び合う程仲が良かった。そこで「あいちゃん」と「ポッポちゃん」が「さんちゃん」を励ます夕べを赤坂で開いた。そこで三枝は正直に胸の内を打ち明けた。鳩山威一郎氏は「二男が政治の道に進んだが、長男は学者になってくれて良かったと思っていたが、今度は長男も政治家になりたいと言って困っている。政治家は大勢の皆さんのお世話にならなければならない。一家で3人も国会議員になるなんて許されないだろう。」と語った。それを聞いた三枝は「もしよければ由紀夫君、私の後継者にならないだろうか。」当時東京から参議院議員に出るか、東京1区が分区する前の祖父の選挙区なので、そこから出ようかなどと考えていた由紀夫だった。「それは本人に聞いてみなければ分らないけれども、帰ったら話しをしてみよう。」ということでその日は終わった。
日を改めて音羽御殿に呼び出された由紀夫はその話しに飛びついた。そこで三枝氏に電話して「よろしくお願いします」と頭を下げた。「それじゃ私の選挙区は南條先生から引き継いだので南條未亡人に挨拶に行こう」。目黒の南條家を訪れたが、南條未亡人は「私は三枝先生の後継者に何も言うことはありません。ただ、選挙区の皆さんに応援してもらわなければならないので選挙区の皆さんが良いという方になっていただきたい。」と言った。三枝が帰ってから南條未亡人はすぐ南條の地元秘書だった、私の父に電話しそのことを伝えた。
父は毎日のように新聞記者に尋ねられていた。そこで、鳩山を念頭に置きながら新聞記者に「三枝先生がどのような進退なのかは分らないが、もしも新しい候補となると地元として3つの条件がある。一つ目は三枝先生は副知事から国会議員になったが、それでは遅すぎる。将来大臣を3回も4回もするためには若い候補でなければならない。2つ目は今地元室蘭は経済的に大変厳しい。だから選挙資金をすべて集めるのも限界がある。中央に資金的なパイプがある人が望ましい。第3点目はこれからの政治家は世界相手に活躍しなければならないのでそのような国際感覚が求められる。」と発表した。鳩山を受入れるための地ならしをしたのだが、そうとは知らないマスコミは桜井の3条件として書き立てた。
父のところに三枝から手紙が届いた。それに対して父は「鳩山を受入れるためにも手順がある、それは南條が三枝を後継指名した時と同じように進めたいので、地元のことはまかして欲しい」とした。三枝は「鳩山家とのパイプは東洋実業の社長が握っているのでそこと打ち合わせて進めて欲しい」とのことだった。私は東洋実業の社長に呼ばれた。今のような携帯電話もない時代の話しです。「桜井君、三枝の後継に鳩山家の長男坊を出したい、そこで鳩山一郎の書生だった私が北海道の鳩山家の窓口になり、地元は桜井君(私の父)にまかせる。お前は内の社員であり桜井君から見れば息子だ、だから腹蔵なく話せる、2人の間の連絡役になって欲しい。やがて由紀夫ちゃんが北海道に来た時には秘書になってもらうからな」。
当初地元市議会議員も年長者は賛成をしていたが、若手には反対が多かった。それを丁寧に口説いた。マンションも常盤町に求めた。常盤町は旧南條家や栗林家、自民党支部長の家があった中心住宅街だった。私は三枝の運転手のようにして一緒に選挙区各地を回って鳩山の地ならしをした。そおして迎えた三枝連合連合会、札幌の東急ホテルで行なわれた。それに先立つ数日前、作戦本部を京王プラザのスイートを借り切って町村金吾氏、地崎氏などへの挨拶。連合後援会長に予定している高橋賢一氏に来てもらい。議長には会議が荒れた時を考えて芳賀昭雄氏(後に政策秘書になった芳賀大輔氏の父)、そして三枝氏が選挙で負けた後の総会なので、気勢を制するように私の父が冒頭地元を代表して謝罪するような作戦を立てた。みごとその作戦は当たり、いろいろ不満があったのだが、その先に地元で謝られてはそれ以上の追求はなく、無事に鳩山を推薦することが出来た。
その後のことは地元皆さんの知るところですが、三枝先生は51市町村すべてを鳩山と回り、自分の後援会を鳩山に看板の書き換えをした。しかし、それ以上は鳩山の邪魔にならないように身を引きました。東洋実業の東京本社で会長としてその後も活躍していたようです。以前札幌で社長に聞いたところ「たまに出社して、ゴルフなんかしていてもいいのに、真面目に出社している」と正に三枝先生の面目躍如と言ったところでした。私も以前上京した際、「是非一緒に飯を食べたい」とご招待を受け、昼食をごちそうになりました。政治家らしくない、いい先生でした。
昭和58年12月の選挙で落選した三枝先生は、そのまま引退するのか、もう一度衆議院を目指すのか迷い姿をくらました。残された地元市町は年末の予算策定時期に落選したとはいえ元代議士として各方面への陳情に充てにしていたのだがどこにいるのか分らない。新聞記者は当時自民党室蘭の幹事長をしていた私の父の元に取材にくる。父も分らないと答えるしかなかった。
落選した三枝先生は司葉子の夫である相沢氏と鳩山の父である威一郎と「さんちゃん」「あいちゃん」「ポッポちゃん」と呼び合う程仲が良かった。そこで「あいちゃん」と「ポッポちゃん」が「さんちゃん」を励ます夕べを赤坂で開いた。そこで三枝は正直に胸の内を打ち明けた。鳩山威一郎氏は「二男が政治の道に進んだが、長男は学者になってくれて良かったと思っていたが、今度は長男も政治家になりたいと言って困っている。政治家は大勢の皆さんのお世話にならなければならない。一家で3人も国会議員になるなんて許されないだろう。」と語った。それを聞いた三枝は「もしよければ由紀夫君、私の後継者にならないだろうか。」当時東京から参議院議員に出るか、東京1区が分区する前の祖父の選挙区なので、そこから出ようかなどと考えていた由紀夫だった。「それは本人に聞いてみなければ分らないけれども、帰ったら話しをしてみよう。」ということでその日は終わった。
日を改めて音羽御殿に呼び出された由紀夫はその話しに飛びついた。そこで三枝氏に電話して「よろしくお願いします」と頭を下げた。「それじゃ私の選挙区は南條先生から引き継いだので南條未亡人に挨拶に行こう」。目黒の南條家を訪れたが、南條未亡人は「私は三枝先生の後継者に何も言うことはありません。ただ、選挙区の皆さんに応援してもらわなければならないので選挙区の皆さんが良いという方になっていただきたい。」と言った。三枝が帰ってから南條未亡人はすぐ南條の地元秘書だった、私の父に電話しそのことを伝えた。
父は毎日のように新聞記者に尋ねられていた。そこで、鳩山を念頭に置きながら新聞記者に「三枝先生がどのような進退なのかは分らないが、もしも新しい候補となると地元として3つの条件がある。一つ目は三枝先生は副知事から国会議員になったが、それでは遅すぎる。将来大臣を3回も4回もするためには若い候補でなければならない。2つ目は今地元室蘭は経済的に大変厳しい。だから選挙資金をすべて集めるのも限界がある。中央に資金的なパイプがある人が望ましい。第3点目はこれからの政治家は世界相手に活躍しなければならないのでそのような国際感覚が求められる。」と発表した。鳩山を受入れるための地ならしをしたのだが、そうとは知らないマスコミは桜井の3条件として書き立てた。
父のところに三枝から手紙が届いた。それに対して父は「鳩山を受入れるためにも手順がある、それは南條が三枝を後継指名した時と同じように進めたいので、地元のことはまかして欲しい」とした。三枝は「鳩山家とのパイプは東洋実業の社長が握っているのでそこと打ち合わせて進めて欲しい」とのことだった。私は東洋実業の社長に呼ばれた。今のような携帯電話もない時代の話しです。「桜井君、三枝の後継に鳩山家の長男坊を出したい、そこで鳩山一郎の書生だった私が北海道の鳩山家の窓口になり、地元は桜井君(私の父)にまかせる。お前は内の社員であり桜井君から見れば息子だ、だから腹蔵なく話せる、2人の間の連絡役になって欲しい。やがて由紀夫ちゃんが北海道に来た時には秘書になってもらうからな」。
当初地元市議会議員も年長者は賛成をしていたが、若手には反対が多かった。それを丁寧に口説いた。マンションも常盤町に求めた。常盤町は旧南條家や栗林家、自民党支部長の家があった中心住宅街だった。私は三枝の運転手のようにして一緒に選挙区各地を回って鳩山の地ならしをした。そおして迎えた三枝連合連合会、札幌の東急ホテルで行なわれた。それに先立つ数日前、作戦本部を京王プラザのスイートを借り切って町村金吾氏、地崎氏などへの挨拶。連合後援会長に予定している高橋賢一氏に来てもらい。議長には会議が荒れた時を考えて芳賀昭雄氏(後に政策秘書になった芳賀大輔氏の父)、そして三枝氏が選挙で負けた後の総会なので、気勢を制するように私の父が冒頭地元を代表して謝罪するような作戦を立てた。みごとその作戦は当たり、いろいろ不満があったのだが、その先に地元で謝られてはそれ以上の追求はなく、無事に鳩山を推薦することが出来た。
その後のことは地元皆さんの知るところですが、三枝先生は51市町村すべてを鳩山と回り、自分の後援会を鳩山に看板の書き換えをした。しかし、それ以上は鳩山の邪魔にならないように身を引きました。東洋実業の東京本社で会長としてその後も活躍していたようです。以前札幌で社長に聞いたところ「たまに出社して、ゴルフなんかしていてもいいのに、真面目に出社している」と正に三枝先生の面目躍如と言ったところでした。私も以前上京した際、「是非一緒に飯を食べたい」とご招待を受け、昼食をごちそうになりました。政治家らしくない、いい先生でした。
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プロフィール
HN:
桜井忠
年齢:
70
性別:
男性
誕生日:
1954/02/03
職業:
苫小牧市議会議員
趣味:
書道
自己紹介:
大東文化大学経済学部卒
職歴 苫小牧市議(4期)、前苫小牧市長、元代議士秘書
室蘭市出身
職歴 苫小牧市議(4期)、前苫小牧市長、元代議士秘書
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