「さくら」通信
苫小牧市議会議員桜井忠のブログ
カテゴリー「市議会」の記事一覧
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避難勧告発令
今日から議会では代表質問の予定でしたが雨で順延となりました。私は議会に来てますが、多くの人は来てません。町内で対策中なのでしょう。
今有珠の沢町に避難勧告が出されました。仕事中などで知らない方もいると思いますので、どうぞお気をつけ下さい。
今有珠の沢町に避難勧告が出されました。仕事中などで知らない方もいると思いますので、どうぞお気をつけ下さい。
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「トンネルのお話し/日韓トンネル構想30年の活動報告」
土曜日、議会の合間であったが札幌で行なわれた「トンネルのお話し/日韓トンネル構想30年の活動報告」が札幌のニューオオタニイン札幌で行なわれたので参加してきました。最初の「トンネルのお話し」は北大の副学長の三上先生がトンネルの基本的なお話を分かりやすくお話しいただき、日本の技術、特に青函トンネルで発揮された高い技術力のお話をいただきました。ただ時間の関係で以前噴火湾を横断する水中トンネル構想があり、堂垣内元知事が代表となって推進していた話が聞けませんでした。資料によりますと噴火湾に敷設した場合のケーススタディでは2兆1千5百億円となり、建設には14年かかるという計算は出来ていたようです。
後段は「日韓トンネル構想30年の活動報告」は一般財団法人国際ハイウエイ財団理事長の大江氏がされましたが、海底地質調査などルート選定にあたりいろいろな取組をし、抗口となる土地の買収などがされている様子が報告された。
このトンネルが出来ると東京〜ロンドンをキャンピングカーでのんびり走破してみたいものだが、そのためにもその地の治安が良くなって安心して旅行が出来るようになってほしいものです。
後段は「日韓トンネル構想30年の活動報告」は一般財団法人国際ハイウエイ財団理事長の大江氏がされましたが、海底地質調査などルート選定にあたりいろいろな取組をし、抗口となる土地の買収などがされている様子が報告された。
このトンネルが出来ると東京〜ロンドンをキャンピングカーでのんびり走破してみたいものだが、そのためにもその地の治安が良くなって安心して旅行が出来るようになってほしいものです。
アイヌ地名=余談
先にアイヌ語地名を今一度見直してみる必要があるのではないかと申し上げたが、その地名に関して余談として書き込みたい。気楽に聞き流して欲しい。
昔の北海道(蝦夷地)は交通の便も悪く、同じ形質の持った土地に同じような名前がついているところがある。コイトイはその1つの例だが、植苗のウエン•ナイはナイは川で、ベツともいうところもある。ですからウエン•ベツも同じ意味。雨煙別は幌加内町に駅があり、栗山町にも鳩山の隣が雨煙別です。また遠別町もウェン•ベツおなじである。悪い川の意味だが何が悪いのかは定かではない、植苗は先にも書いたのだが、温泉が流れ込み臭く、濁っていることによるものと思われる。
さてこれは桜井説なのであまり信用ならないが、アイヌ語では川は別(ベツ)と内(ナイ)があるのだが、太平洋側に別が多く日本海側に内が多い。例えば別は伊達紋別、登別、幌別(胆振•日高)、穂別、門別、音別、女満別、湧別、紋別、浜頓別。内は木古内、岩内、神恵内、真駒内、稚内。勿論、静内などの例外もあります。
さて苫小牧ですがほとんどが太平洋側なのに内です。植苗、ウトナイ、ペンケナイ、パンケナイなど。これは太平洋側アイヌと日本海側アイヌが行き来していた証拠ではないだろうか。分水嶺が苫小牧の御前水と千歳の美々の間にあり、大変低い。ですから美々川を遡り、ちょっとの間馬に船を引かせ、千歳側に降りたことは実証されております。その交流の1つの証左として川名に日本海アイヌの方言が使われたのではないだろうか。一番白老側の川は別々川(川がくねっていて重なっている様子のベツベツ)と別が使われています。ここまでは日本海アイヌの影響は届かなかったとも言えると思います。
面白いのは沼ノ端、これは和人(日本)語です。さてそこから安平に向かうと最初の集落は遠浅ですが、これはト•アサム(沼の奥)またはト•サム(沼の端)が語源と思われます。つまり、沼ノ端と同じです。しからばこの沼とはどこでしょうか。ウトナイ湖を挟んでこちら側が沼ノ端、向こう側が沼ノ奥(ト•アサム)としたならば面白いのですがどうでしょうか。
さて新千歳空港周辺にペンケナイ、パンケナイの川が流れていますが、これはアイヌ語にはよくある対になった言葉でペンケ•ナイは上の川、パンケ•ナイは下の川です。これは同じく札幌の盤渓や壮瞥の虫番溪温泉(バンがでない)、弁慶川などと同じです。また対になった言葉はポロとポンがありますが大と小または母と子です。幌別(ポロ•ベツ)やポロト湖、穂別(ポン•ベツ)や本別(ポン•ベツ)がそれです。さらに門別(モ•ベツ)は紋別や伊達紋別と同じですが静かな川です。
昔の北海道(蝦夷地)は交通の便も悪く、同じ形質の持った土地に同じような名前がついているところがある。コイトイはその1つの例だが、植苗のウエン•ナイはナイは川で、ベツともいうところもある。ですからウエン•ベツも同じ意味。雨煙別は幌加内町に駅があり、栗山町にも鳩山の隣が雨煙別です。また遠別町もウェン•ベツおなじである。悪い川の意味だが何が悪いのかは定かではない、植苗は先にも書いたのだが、温泉が流れ込み臭く、濁っていることによるものと思われる。
さてこれは桜井説なのであまり信用ならないが、アイヌ語では川は別(ベツ)と内(ナイ)があるのだが、太平洋側に別が多く日本海側に内が多い。例えば別は伊達紋別、登別、幌別(胆振•日高)、穂別、門別、音別、女満別、湧別、紋別、浜頓別。内は木古内、岩内、神恵内、真駒内、稚内。勿論、静内などの例外もあります。
さて苫小牧ですがほとんどが太平洋側なのに内です。植苗、ウトナイ、ペンケナイ、パンケナイなど。これは太平洋側アイヌと日本海側アイヌが行き来していた証拠ではないだろうか。分水嶺が苫小牧の御前水と千歳の美々の間にあり、大変低い。ですから美々川を遡り、ちょっとの間馬に船を引かせ、千歳側に降りたことは実証されております。その交流の1つの証左として川名に日本海アイヌの方言が使われたのではないだろうか。一番白老側の川は別々川(川がくねっていて重なっている様子のベツベツ)と別が使われています。ここまでは日本海アイヌの影響は届かなかったとも言えると思います。
面白いのは沼ノ端、これは和人(日本)語です。さてそこから安平に向かうと最初の集落は遠浅ですが、これはト•アサム(沼の奥)またはト•サム(沼の端)が語源と思われます。つまり、沼ノ端と同じです。しからばこの沼とはどこでしょうか。ウトナイ湖を挟んでこちら側が沼ノ端、向こう側が沼ノ奥(ト•アサム)としたならば面白いのですがどうでしょうか。
さて新千歳空港周辺にペンケナイ、パンケナイの川が流れていますが、これはアイヌ語にはよくある対になった言葉でペンケ•ナイは上の川、パンケ•ナイは下の川です。これは同じく札幌の盤渓や壮瞥の虫番溪温泉(バンがでない)、弁慶川などと同じです。また対になった言葉はポロとポンがありますが大と小または母と子です。幌別(ポロ•ベツ)やポロト湖、穂別(ポン•ベツ)や本別(ポン•ベツ)がそれです。さらに門別(モ•ベツ)は紋別や伊達紋別と同じですが静かな川です。
蛇落地悪谷
広島や礼文でも水害が発生し、甚大な被害が出ました。被災された方々にお見舞いを申し上げますとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
さて、広島の土砂崩れがあった八木地区は古くからの地名が「蛇落地悪谷」と付いていたと言う。それは昔の人がこの地域の人に注意喚起を地名でしていたものに違いない。しかし近年それらの地名が消えてしまい、科学が発達した現代に伝わっていない。しかし昔の人の言葉には重いものがある。3年前の東日本大震災でも、古い石碑がこれより上に逃げろと残されていたり、神社のある地点が皆被災しておらず、そこまで逃げれというサインだったのではないかと言われている。
地名は縁起の悪いものが良いものに改変されてきた。例えば「芦原」の「芦」が「悪」に繋がるというので「吉」=「良」に直され「吉原」と変った。
こんなこともあった、以前飛鳥寺の横に遺跡が発見された、発掘の中間発表があったが、大変な基礎工事であったために迎賓館ではないかと思われた、遺跡の名前は地名、明日香村字水落から「水落遺跡」と付けられた。しかしその直後漆塗りの板(タンク)や、銅のパイプが発見され、それが中大兄皇子が作らせたとされる漏刻、つまり水時計の跡であることが分った。しかし、地名の「水落」とは漏刻があったから付いた地名ではないだろうか。そのことに有名な大学教授が大勢いて気が付かなかったのがおかしい。
さて北海道の地名はほとんどアイヌ語で、その地形から来ている。苫小牧はト•マコマ•イ、トは湖、ポロトのトと同じです。マコマは真駒内のマコマと同じで山奥へ深く入っているということ、イは場所。湖へ山奥へ入って行く場所=支笏湖への入り口ということでしょうか。植苗はウエン•ナイで悪い川という意味。温泉が入り込み、水が濁っていたことによるものと思われます。小糸井は古くは小糸魚と言ったがコイ•トゥイェで波が崩すということ。そういえばゴルフ練習場が廃業して残されているが海岸浸食で倒壊の危険性が指摘されている、地名からしても古来より先人が「気をつけろ」と言ってくれている。同じ地名は稚内に声問、標津にコイトイ、白糠にもある。
地名が変わったところはシコツ(支笏)で大きい沢の意味だが、シコツは死骨に繋がるとのことで、縁起のいい千歳に変ってしまった。支笏湖にその名が残ったが、意味からすれば先にシコツの川があり、その川の源流の湖ということで支笏湖になるのだが。
私たちは北海道に長年自然と共生してきたアイヌの方々が付けた名前に今一度焦点を当ててみるべきではないだろうか。
さて、広島の土砂崩れがあった八木地区は古くからの地名が「蛇落地悪谷」と付いていたと言う。それは昔の人がこの地域の人に注意喚起を地名でしていたものに違いない。しかし近年それらの地名が消えてしまい、科学が発達した現代に伝わっていない。しかし昔の人の言葉には重いものがある。3年前の東日本大震災でも、古い石碑がこれより上に逃げろと残されていたり、神社のある地点が皆被災しておらず、そこまで逃げれというサインだったのではないかと言われている。
地名は縁起の悪いものが良いものに改変されてきた。例えば「芦原」の「芦」が「悪」に繋がるというので「吉」=「良」に直され「吉原」と変った。
こんなこともあった、以前飛鳥寺の横に遺跡が発見された、発掘の中間発表があったが、大変な基礎工事であったために迎賓館ではないかと思われた、遺跡の名前は地名、明日香村字水落から「水落遺跡」と付けられた。しかしその直後漆塗りの板(タンク)や、銅のパイプが発見され、それが中大兄皇子が作らせたとされる漏刻、つまり水時計の跡であることが分った。しかし、地名の「水落」とは漏刻があったから付いた地名ではないだろうか。そのことに有名な大学教授が大勢いて気が付かなかったのがおかしい。
さて北海道の地名はほとんどアイヌ語で、その地形から来ている。苫小牧はト•マコマ•イ、トは湖、ポロトのトと同じです。マコマは真駒内のマコマと同じで山奥へ深く入っているということ、イは場所。湖へ山奥へ入って行く場所=支笏湖への入り口ということでしょうか。植苗はウエン•ナイで悪い川という意味。温泉が入り込み、水が濁っていたことによるものと思われます。小糸井は古くは小糸魚と言ったがコイ•トゥイェで波が崩すということ。そういえばゴルフ練習場が廃業して残されているが海岸浸食で倒壊の危険性が指摘されている、地名からしても古来より先人が「気をつけろ」と言ってくれている。同じ地名は稚内に声問、標津にコイトイ、白糠にもある。
地名が変わったところはシコツ(支笏)で大きい沢の意味だが、シコツは死骨に繋がるとのことで、縁起のいい千歳に変ってしまった。支笏湖にその名が残ったが、意味からすれば先にシコツの川があり、その川の源流の湖ということで支笏湖になるのだが。
私たちは北海道に長年自然と共生してきたアイヌの方々が付けた名前に今一度焦点を当ててみるべきではないだろうか。
落陽ー3
落陽−1では、「襟裳岬」で岡本おさみさんが町民から嫌がられる「えりもの春は何もない春です」という歌詞を書いたこと。落陽−2では苫小牧サンバであってはならない青少年の非行を助長する内容なことを書きました。落陽−3でいよいよ本題です。
襟裳岬を訪れて構想を練ったあと岡本さんは苫小牧に寄って「じいさん」と出会います。駅に降りた岡本おさみさんは駅前通りを歩いて一軒の間口の狭い本屋に入ります。その本屋はどこでしょうか。初田会長は駅前にあった君島書店ではないかと言います。政治評論を立ち読みする「じいさん」に興味を持って後を付けて行く。公園に出てそこのベンチに腰を下ろす。その公園は王子のアカシア公園でないかと言います。
しかし私の推理は違います。まず、君島書店は結構大きな本屋さんですから、間口の狭い書店は表町2丁目にあった新生堂でないかと思います。そこを出た「じいさん」が腰を下ろしたのは出雲公園か表町公園。その後行ったちんちろりんの賭場への小路を考えると、出雲公園だと思います。そこで岡本さんもベンチに腰を下ろして「じいさん」に声をかけます。もともと物書きで政治評論を立ち読みをしていること、しかし今は身を持ち崩してちんちろりん通いの日々なこと。ちんちろりんに興味を示すと、決して掛けたら駄目だよと念を押して小路を抜けて2階建ての建物の中に入って行きちんちろりんを見せてくれる。だとしたなら出雲公園へ行く親不孝通りは、苫小牧の人にとっては小路なのだが、東京人の岡本おさみさんにとってはただの道路だろう、きっと小路というのは出雲神社の裏手にある道のことではないだろうか。それを右か左かは分らないけれど通ってちんちろりんをしていた家に出たのだろう。私はそう思います。
「じいさん」は別れにポケットからサイコロを2個渡します。3個渡せばちんちろりんをしてしまう、そうなると自分のような人生を送ってしまうから、博打はするなと2個のサイコロ。フェリーに乗込み甲板に出てみると、見送りの人のはじっこに「じいさん」が来ている。誰かの投げたテープを拾ってもう一度投げてみる、大きく弧を描いたテープだったが船の腹にあたって落ちてしまった。そんなじいさんを思いながらいつかもう一度合いたいと願う空に、恵山岬の彼方へ夕日が落ちて行く。
誰かに頼まれて名所をちりばめた歌ではなく、誰も声など掛けないような「じいさん」との出会いが「落陽」に歌われている。襟裳岬のような他所者の眼で見た、岡本おさみの感性の歌。それが「落陽」なんだと思う。襟裳岬は森進一の代表曲になり、落陽は拓郎の代表曲となった。そこにはお金で書いたものではない迫力があり、瑞々しい感性がある。きれいな言葉もなく、着飾った表現もない。けれども、そこに生きる人の暮らしがある、荒々しい生きる力がある。
襟裳岬を訪れて構想を練ったあと岡本さんは苫小牧に寄って「じいさん」と出会います。駅に降りた岡本おさみさんは駅前通りを歩いて一軒の間口の狭い本屋に入ります。その本屋はどこでしょうか。初田会長は駅前にあった君島書店ではないかと言います。政治評論を立ち読みする「じいさん」に興味を持って後を付けて行く。公園に出てそこのベンチに腰を下ろす。その公園は王子のアカシア公園でないかと言います。
しかし私の推理は違います。まず、君島書店は結構大きな本屋さんですから、間口の狭い書店は表町2丁目にあった新生堂でないかと思います。そこを出た「じいさん」が腰を下ろしたのは出雲公園か表町公園。その後行ったちんちろりんの賭場への小路を考えると、出雲公園だと思います。そこで岡本さんもベンチに腰を下ろして「じいさん」に声をかけます。もともと物書きで政治評論を立ち読みをしていること、しかし今は身を持ち崩してちんちろりん通いの日々なこと。ちんちろりんに興味を示すと、決して掛けたら駄目だよと念を押して小路を抜けて2階建ての建物の中に入って行きちんちろりんを見せてくれる。だとしたなら出雲公園へ行く親不孝通りは、苫小牧の人にとっては小路なのだが、東京人の岡本おさみさんにとってはただの道路だろう、きっと小路というのは出雲神社の裏手にある道のことではないだろうか。それを右か左かは分らないけれど通ってちんちろりんをしていた家に出たのだろう。私はそう思います。
「じいさん」は別れにポケットからサイコロを2個渡します。3個渡せばちんちろりんをしてしまう、そうなると自分のような人生を送ってしまうから、博打はするなと2個のサイコロ。フェリーに乗込み甲板に出てみると、見送りの人のはじっこに「じいさん」が来ている。誰かの投げたテープを拾ってもう一度投げてみる、大きく弧を描いたテープだったが船の腹にあたって落ちてしまった。そんなじいさんを思いながらいつかもう一度合いたいと願う空に、恵山岬の彼方へ夕日が落ちて行く。
誰かに頼まれて名所をちりばめた歌ではなく、誰も声など掛けないような「じいさん」との出会いが「落陽」に歌われている。襟裳岬のような他所者の眼で見た、岡本おさみの感性の歌。それが「落陽」なんだと思う。襟裳岬は森進一の代表曲になり、落陽は拓郎の代表曲となった。そこにはお金で書いたものではない迫力があり、瑞々しい感性がある。きれいな言葉もなく、着飾った表現もない。けれども、そこに生きる人の暮らしがある、荒々しい生きる力がある。
落陽−2
苫小牧市では市政執行50周年を記念して苫小牧サンバを作った。羽田健太郎氏に依頼して作成し歌ったのは女性演歌歌手の長山洋子でした。今でも市民踊りで一部使われています。
当時の世相は毎週土曜になると港に若者の車が集まって来て暴走を繰り返す。また若い女性がその車から声を掛けられるように集まってきて、非行や犯罪の温床にもなっていた。
ある町内の婦人部長が苫小牧サンバを婦人部で覚えようと模造紙に歌詞を書き出した。しかしすぐに嫌になって辞めてしまった。何故ならその歌詞は「港で若者が出会って•••」という、ちょうどその当時問題になっていたことを、苫小牧を見ることなく、「人が出会う港」という、横浜や神戸のようなイメージだけで作ってしまった歌詞だったからです。
その後、長山洋子のコンサートが苫小牧であった時、客の1人が苫小牧サンバをリクエストしましたが、長山洋子は困って立ち尽くしてしまったということがあったらしい。その話しが本当ならば無理もないことで、長山洋子はご当地ソングとも言えないその街だけの歌の吹き込みをしたのであって、長山洋子の持ち歌ではないのですから。
確かこの歌に付けた予算が1500万円だったと記憶しています。この予算に反対の意味で質問したのは私だけでした。私は市民の歌を新たに作るのならまずは市民から公募するべきだと思う、それによって市民の目が市内に向きます。決して港で若者が出会ってという歌詞は出て来ないでしょう。しかしもしも入選作がなければその時点でプロに頼むのでいいのではないかと思います。ちなみに先に室蘭市がサンバを作ったのですが、市民公募でしたので予算は全部で200万円。苫小牧の金額を聞いて室蘭市の財政担当者は「苫小牧はお金があってうらやましい」と嘆いていました。しかし市民の税金、お金があってもなくても、正しい使い方をしなくてはなりません。まず多くの市民に懸賞を付けて応募をすればいい歌が出来たと思います。当時担当者は「サンバは難しいのでプロでなければ出来ない」と答えていましたが、決して室蘭に比べて優れているとは思いません。
当時の世相は毎週土曜になると港に若者の車が集まって来て暴走を繰り返す。また若い女性がその車から声を掛けられるように集まってきて、非行や犯罪の温床にもなっていた。
ある町内の婦人部長が苫小牧サンバを婦人部で覚えようと模造紙に歌詞を書き出した。しかしすぐに嫌になって辞めてしまった。何故ならその歌詞は「港で若者が出会って•••」という、ちょうどその当時問題になっていたことを、苫小牧を見ることなく、「人が出会う港」という、横浜や神戸のようなイメージだけで作ってしまった歌詞だったからです。
その後、長山洋子のコンサートが苫小牧であった時、客の1人が苫小牧サンバをリクエストしましたが、長山洋子は困って立ち尽くしてしまったということがあったらしい。その話しが本当ならば無理もないことで、長山洋子はご当地ソングとも言えないその街だけの歌の吹き込みをしたのであって、長山洋子の持ち歌ではないのですから。
確かこの歌に付けた予算が1500万円だったと記憶しています。この予算に反対の意味で質問したのは私だけでした。私は市民の歌を新たに作るのならまずは市民から公募するべきだと思う、それによって市民の目が市内に向きます。決して港で若者が出会ってという歌詞は出て来ないでしょう。しかしもしも入選作がなければその時点でプロに頼むのでいいのではないかと思います。ちなみに先に室蘭市がサンバを作ったのですが、市民公募でしたので予算は全部で200万円。苫小牧の金額を聞いて室蘭市の財政担当者は「苫小牧はお金があってうらやましい」と嘆いていました。しかし市民の税金、お金があってもなくても、正しい使い方をしなくてはなりません。まず多くの市民に懸賞を付けて応募をすればいい歌が出来たと思います。当時担当者は「サンバは難しいのでプロでなければ出来ない」と答えていましたが、決して室蘭に比べて優れているとは思いません。
落陽−1
先日、吉田拓郎の代表作の1つである「落陽」に出てくる、実在の「じいさん」の足跡を辿る道を歩いてみた。そのことを書こうと思うのだが少し長くなるので、文章を分けて書き込みたい。まず最初は「落陽」と兄弟曲(と私は思っているのだが)の「襟裳岬」について描いてみたい。なお内容は専ら私の独断による評価であることをお断りしておく。
1974年(昭和49年)1月、「襟裳岬」が発売された。演歌歌手として一番脂の乗った森進一が歌い、当初は拓郎の字余り的な歌が会社に評価されず、B面になるところだったのだが何とか両A面として発売されたのだが、大ヒットとなり、その年のレコード大賞など賞を総嘗めし、紅白歌合戦の大トリともなった。その際女性軍のトリは島倉千代子の「襟裳岬」だった。
ただしかし、その頃のえりも町ではあまり森進一の「襟裳岬」の評価は高くなかった。それは歌詞のサビのところで「えりもの春は何もない春です」というところ。えりもの人は「確かにえりもの冬は何もないけどよ」と思いながらも「東京からちょっと来た人に言われたくない。」「そんなことわざわざ大きな声で言わなくてもいいだろう。」という感情だったのだろう。
よくご当地ソングが流行りますが、それらの場合、作詞家は街に招かれて接待を受ける。そして町内のいいところを見て歩いて1つの詞を作る。そういう場合何か物語を作ってその歌詞の中に町内のいいところを謳い込んでいく。だから、それなりの表現とはなるけれども、「襟裳岬」のような直接的な謳い込みはしない。これは岡本おさみさんが招かれたのではなく、自分の足で歩いた中で「他所者」だけに描けた感性だったのだと思う。
今は、えりも町の方々も評価は変ってきた。森進一の「襟裳岬」がレコード大賞を取る位に襟裳岬をPRしてくれたからだろう。歌詞の最後に「遠慮はいらないから、暖まって行きなよ」、何にもないけれども人の心の暖かさがある。貧しい寒村だけれども、お金に換えがたい温かい心がある。岡本さんはそのことを言いたかったんだと町民が気が付いてきたのだと思う。
1974年(昭和49年)1月、「襟裳岬」が発売された。演歌歌手として一番脂の乗った森進一が歌い、当初は拓郎の字余り的な歌が会社に評価されず、B面になるところだったのだが何とか両A面として発売されたのだが、大ヒットとなり、その年のレコード大賞など賞を総嘗めし、紅白歌合戦の大トリともなった。その際女性軍のトリは島倉千代子の「襟裳岬」だった。
ただしかし、その頃のえりも町ではあまり森進一の「襟裳岬」の評価は高くなかった。それは歌詞のサビのところで「えりもの春は何もない春です」というところ。えりもの人は「確かにえりもの冬は何もないけどよ」と思いながらも「東京からちょっと来た人に言われたくない。」「そんなことわざわざ大きな声で言わなくてもいいだろう。」という感情だったのだろう。
よくご当地ソングが流行りますが、それらの場合、作詞家は街に招かれて接待を受ける。そして町内のいいところを見て歩いて1つの詞を作る。そういう場合何か物語を作ってその歌詞の中に町内のいいところを謳い込んでいく。だから、それなりの表現とはなるけれども、「襟裳岬」のような直接的な謳い込みはしない。これは岡本おさみさんが招かれたのではなく、自分の足で歩いた中で「他所者」だけに描けた感性だったのだと思う。
今は、えりも町の方々も評価は変ってきた。森進一の「襟裳岬」がレコード大賞を取る位に襟裳岬をPRしてくれたからだろう。歌詞の最後に「遠慮はいらないから、暖まって行きなよ」、何にもないけれども人の心の暖かさがある。貧しい寒村だけれども、お金に換えがたい温かい心がある。岡本さんはそのことを言いたかったんだと町民が気が付いてきたのだと思う。
半ば自らのために 半ば他人のために
昭和30年代前半に大宮デン助という喜劇俳優がいましたが、何と50年代まで生きていたことは知らなかった。子供だった私はこのデン助が大好きでした。しかし今思い起こしてもそのストーリーは何一つ記憶にない。記憶にあるのは浮浪者のように汚い格好で口の回りに無精髭をはやした化粧をしていたことと、1つ1つの仕草が面白くて笑うのだが、笑っているうちに人情話に涙し(当時はそれ程涙もろくはなかったが)、いつの間にか笑い泣きをしていたことでした。
先日あるブログ(http://ameblo.jp/kids-sports-creation/entry-11903500620.html)を読んでいると、実際にあったことなのでしょうが本人に不幸が次々とやってきて、喜劇だとしたならば笑えるのですが、実社会ではそうもいかず、やがて温かい人の心に救われて暖かい者を感じてしまう、そう、まるで大宮デン助の世界が実社会であったのです。
その時思いました、日本人は恥を知る民族です。大震災があっても暴動が起こるどころか、物資を配る列に黙々と並び、決して横入りはしません。これは日本人が貧しい時に近所それぞれお互い様で、醤油を借りたり、油を貸したりという社会でした。その時借りた人は思ったと思います「人に迷惑をかけずに生きたい」と。やがて豊かな日本が実現した時にも「人に迷惑をかけない」という言葉だけは残りました。私が中学校ののPTA役員をしている時、お母さん方にどう子供を躾けているのかと聞いた時に、皆「人に迷惑をかけない子供になって欲しい」と言いました。それは間違いではありません。しかし当時市議会議員になったばかりの頃だった私はちょっと違う考え方であり、自分が市議会に立候補する考えの基本になった考え方でした。
それは少林寺拳法の教えにある「半ば自らのために、半ば他人のために」という言葉ですが。「自ら努力はしなければならない、しかし自らの努力だけでは何ともならない時がある。その時は他人に協力を求めよう。それと共に、そのような時があるのだから他人が困っている時にはいつでも汗を流そう。」ということです。
ブログを書いた方は、ご主人が出張中に1人の子供と自分が風邪で熱を出す。病院に行くために子供の面倒を見てもらわなくてはならない。ブログにそのことを書き、助けてくれる人を捜そうとするのだが、途中でもしも悪い人が見ていると最悪の事態になる。書き込みは止めていろいろ考える。ママ友に頼ろうか、いやいや風邪をうつしては大変だ。そんな時、隣のご主人が回覧板を持ってくる、今がチャンスと思うのだが、いざとなるといろいろとネガティブな考えが出てきて出来ない。自ら子供を連れて行くしかないと車を動かすと生け垣に衝突してしまう。そんな時力になってくれたのが近所のオジイさん夫婦。オバアさんが子供の面倒を見、オジイさんが車を出して病院まで届けてくれる。帰るとお買い物までしてくれる。嬉しさに泣いていると、子供が•••。というストーリーです。身に詰まされるけど、こんな時に頼りになる「お年寄り」という存在はこれからの社会に必要な位置を占めるのだと思います。
私は政治家の力で何とかなるものは民間人の力でも何とかなる。民間人の力で何とかならないものは政治家の力でも何ともならないということでなければいけないものと思っています。だから何でも政治家を利用する人を信用できません。自ら努力する人、でもなかなか光が当たらない人にこそ、一緒に努力する政治家でありたいと思っています。
先日あるブログ(http://ameblo.jp/kids-sports-creation/entry-11903500620.html)を読んでいると、実際にあったことなのでしょうが本人に不幸が次々とやってきて、喜劇だとしたならば笑えるのですが、実社会ではそうもいかず、やがて温かい人の心に救われて暖かい者を感じてしまう、そう、まるで大宮デン助の世界が実社会であったのです。
その時思いました、日本人は恥を知る民族です。大震災があっても暴動が起こるどころか、物資を配る列に黙々と並び、決して横入りはしません。これは日本人が貧しい時に近所それぞれお互い様で、醤油を借りたり、油を貸したりという社会でした。その時借りた人は思ったと思います「人に迷惑をかけずに生きたい」と。やがて豊かな日本が実現した時にも「人に迷惑をかけない」という言葉だけは残りました。私が中学校ののPTA役員をしている時、お母さん方にどう子供を躾けているのかと聞いた時に、皆「人に迷惑をかけない子供になって欲しい」と言いました。それは間違いではありません。しかし当時市議会議員になったばかりの頃だった私はちょっと違う考え方であり、自分が市議会に立候補する考えの基本になった考え方でした。
それは少林寺拳法の教えにある「半ば自らのために、半ば他人のために」という言葉ですが。「自ら努力はしなければならない、しかし自らの努力だけでは何ともならない時がある。その時は他人に協力を求めよう。それと共に、そのような時があるのだから他人が困っている時にはいつでも汗を流そう。」ということです。
ブログを書いた方は、ご主人が出張中に1人の子供と自分が風邪で熱を出す。病院に行くために子供の面倒を見てもらわなくてはならない。ブログにそのことを書き、助けてくれる人を捜そうとするのだが、途中でもしも悪い人が見ていると最悪の事態になる。書き込みは止めていろいろ考える。ママ友に頼ろうか、いやいや風邪をうつしては大変だ。そんな時、隣のご主人が回覧板を持ってくる、今がチャンスと思うのだが、いざとなるといろいろとネガティブな考えが出てきて出来ない。自ら子供を連れて行くしかないと車を動かすと生け垣に衝突してしまう。そんな時力になってくれたのが近所のオジイさん夫婦。オバアさんが子供の面倒を見、オジイさんが車を出して病院まで届けてくれる。帰るとお買い物までしてくれる。嬉しさに泣いていると、子供が•••。というストーリーです。身に詰まされるけど、こんな時に頼りになる「お年寄り」という存在はこれからの社会に必要な位置を占めるのだと思います。
私は政治家の力で何とかなるものは民間人の力でも何とかなる。民間人の力で何とかならないものは政治家の力でも何ともならないということでなければいけないものと思っています。だから何でも政治家を利用する人を信用できません。自ら努力する人、でもなかなか光が当たらない人にこそ、一緒に努力する政治家でありたいと思っています。
水難救助会の訓練
昨日は10時から、水難救助会の訓練が漁港でありました。実は新年の水難救助会の出初め式とともに、式直後に行なわれる懇親会が楽しみで、ホッキの刺身やフライ、魚の煮付けが仕出し料理の他に出ます。これが旨い!
ただ昨日は友人の母のお葬式が室蘭で1時からありました。お葬式はその方の人生で、その日だけのことですので、何を置いても優先させなければいけません。残念ながら訓練だけ見学して、懇親会は欠席させていただきました。それにしても、近年レジャーでボートを持つ人が増え、海難事故も水産に従事する方だけではありません。そういう事故にも命をかけて人命を守る水難救助会の方々に敬意と感謝です。
また昨日は港祭りの最終日、昼からは港祭りのメインともいえる吹奏楽や、いろいろな出し物によるパレードがありましたがこれも見ることは出来ませんでした。パレードは地元ケーブルテレビの再放送を楽しみにしましょう。
ただ昨日は友人の母のお葬式が室蘭で1時からありました。お葬式はその方の人生で、その日だけのことですので、何を置いても優先させなければいけません。残念ながら訓練だけ見学して、懇親会は欠席させていただきました。それにしても、近年レジャーでボートを持つ人が増え、海難事故も水産に従事する方だけではありません。そういう事故にも命をかけて人命を守る水難救助会の方々に敬意と感謝です。
また昨日は港祭りの最終日、昼からは港祭りのメインともいえる吹奏楽や、いろいろな出し物によるパレードがありましたがこれも見ることは出来ませんでした。パレードは地元ケーブルテレビの再放送を楽しみにしましょう。
浴衣deナイト
昨日書いた和服(浴衣)の日は正式名称は「浴衣deナイト」でした。
その関係で蛇足に1つ、私には浴衣が3つあるのですが皆着てみると心持ち小さい。いや私が太ったのでしょうが、前合わせがちょうど。つまり少し遊ぶとはだけ気味になります。そこで必殺の秘密兵器が10年前に作った、当時の大関栃東の浴衣。実は生地を1つ半使って作ったものです。いろいろとデブも苦労します。
その関係で蛇足に1つ、私には浴衣が3つあるのですが皆着てみると心持ち小さい。いや私が太ったのでしょうが、前合わせがちょうど。つまり少し遊ぶとはだけ気味になります。そこで必殺の秘密兵器が10年前に作った、当時の大関栃東の浴衣。実は生地を1つ半使って作ったものです。いろいろとデブも苦労します。
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プロフィール
HN:
桜井忠
年齢:
71
性別:
男性
誕生日:
1954/02/03
職業:
苫小牧市議会議員
趣味:
書道
自己紹介:
大東文化大学経済学部卒
職歴 苫小牧市議(4期)、前苫小牧市長、元代議士秘書
室蘭市出身
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